2008年度のタイニン訪問時の参加者の声

『タイニン省のCBR』 

 愛知県春日井市 Y.A.

ベトナムの障害者とかかわり始めて2年半、念願の農村に入ることができました。

ベトナムでは障害者の約8割が農村部に居住していることを知り、地域福祉を研究する立場から、何か役に立てないかと考えておりました。開発途上の国や地域で、WHOが薦める「Community-Based Rehabilitation:CBR」というプログラムが取り入れられていることも知りました。是非CBRの実際を見てみたいと思っていた折、タイニン省のCBRを支援する会があるのを知り、早速会員になり、やっと今年、CBRの実態を目にすることができました。

タイニン省のCBRで感動したことは、CBRワーカーの熱意とレベルの高さです。

いろいろな国でCBRの実態調査が行なわれていますが、一番の問題は「CBRワーカーの継続性」です。無給に近く、活動時間の捻出も難しいため、CBRワーカーがすぐにやめてしまうことが大きな問題となっているのです。けれども、タイニン省のCBRワーカーは12年の方を筆頭に皆、9年10年と続けられており、強い熱意をもっていらっしゃることに驚きました。

また、CBRワーカーのリハビリテーション能力が高いことにも驚きました。CBRワーカーが日常行なっているリハビリを実際に見ていた藤田先生が「それでいいです」と頷いている場面をよく目にしました。

タイニン省のCBRが成功している理由は、CBRワーカーが地域と密接に結びついていることと、研修システムだと思います。

まず、CBRワーカーが、生まれてくる赤ちゃんから転入者まで、担当地域のすべてにかかわって障害者の早期発見に努める、というシステムが功を奏していると思います。

研修に関しても、最初の基本的な研修を終えた後も、特に医療を中心とした研修が重ねられ、これによってCBRワーカーのスキルアップ、モチベーションの維持が図られていると考えます。

一方でタイニン省のCBRを更に進めていくためには、障害者間の連携が必要と思いました。例えば、CBRワーカーのコーディネートによる障害当事者の協働です。今回は訪問した方々のお宅がどのような位置関係になっているのかわからなかったので、安易な提案かもしれませんが、一人ではできなくても、二人、三人が一緒に行動することで可能になることがあるのではないでしょうか。

一例ですが、視覚障害の男性と右足が不自由な男性─中学を辞めた次男と一緒に宝くじ売りをしている視覚障害の方と、オートバイ修理を生業にしたいと思いながら農業に従事している足の不自由な方─二人が一緒に街へ出かけ、それぞれの仕事をするのです。

もちろん、その前に、足の不自由な方がバイク修理の技術を身につける必要がありますが、これは地域で何とか習得する場を見つけられないでしょうか。その上で街に出て、バイク修理をする方の傍らで、視覚障害の方が宝くじを売ることができると思うのです。そうすれば、今、お父さんと一緒に行動するために学校を辞めている次男も学校に戻れるのではないでしょうか。

CBRは「全ての障害者のためのリハビリテーション、機会の均等、社会への統合を目的とする地域開発の戦略の一つである。・・・」と定義され、その目標は「障害者が彼らの身体的、精神的能力を最大限に発揮する」ことです。リハビリに関しては専門家にお任せして、私は「機会の均等、障害者の能力の発揮」に関して勉強を続けていきたいと思っています。

最後になりましたが、尾崎先生をはじめ、今回のタイニン訪問でお世話になった皆様に改めてお礼を申し上げます。

そして、わずか4日間のかかわりでしたのに、優しくしていただいたタイニンの方々に再会できるのを待ち望んでおります。

 

『2008年タイニン省訪問を終えて』
聾話学校職員  A.S.

ベトナムに足を運ぶようになって10年、人々の生活を、そして観光客が足をふみ入れないところで写真撮影をしたいという思いで出かけていました。あるとき、【ベトちゃんとドクちゃんの発達を願う会】の藤本文朗氏のグループに同行しました。そしてホーチミン市内の養護学校や老人ホーム、ツーズー病院平和村を見学する機会がありました。ベトナムから帰国後、ベトナムでの障害児者の生活は、施設入所していない人々の生活はと色々な事を考えさせられました。そんな時、タイニンでの活動を紹介でいただき参加するようになりました。2005年に初めて参加し、カメラで検診などの記録を撮りながらあっという間に活動の日程が終わりました。2006年は尾崎先生から参加するための課題をいただきました。課題は障害児教育について、行政や保護者との懇談、養護学校見学、検診で待っている子どもたちの遊びなど・・・です。日本で簡単に設定できる内容も、ベトナムでは色々な方の協力でやっと実施することができました。しかし、行政では、障害を持っている子どもたちを学校で受け入れることはできない。保護者がずっと付き添うのであれば別、担任の教師は学級運営で精一杯で障害児まで見ることはできない、学級の子どもたちの学力が落ちれば教師の教育力が問われ減給もありえるとのことでした。生活のために働いている親にとっては仕事をしないで子どもに付き添うことは不可能な状態でした。また、お母さんたちと懇談したときも、障害を持つわが子に教育なんて考えられないというのが答えでした。また、障害児を見るのは親や家族の責任、親亡き後は兄弟姉妹が見るんだと言います。しかし自分たちが亡くなった後は不安であると最後にポツリと本音を語ってくれたお母さんたち、やっと聞き出した本音は今でも忘れません。そして養護学校だと聞いていたところは盲聾学校でした。2006年に訪問した地域は、本当に肢体障害、知的障害の子どもたちには何も手立てがない状態でした。

今年度の訪問では、少し嬉しい回答がベトナム側から聞けました。「知恵遅れの子どもたちに娯楽の場を」「障害児の遊びを増やしてほしい」と言う思いを持っていることでした。私は都合のよい解釈し、障害児たちの療育を考えていきたいという思いではないかと理解しました。勝手な解釈であり、私の願望です。こんな思いを持たれている今回の地域は、CBR 訪問や妊婦検診などこれまでと違い積極的にとりくまれているところでした。障害児の療育や教育に前向きな思いをもたれている地域なので、ここで障害児の療育教室などをとりくんでいけるのではないかと少し希望を持っています。どのようにしていけば、とりくんでいけるのかが、今後の私の課題ではないかと思っています。

『タイニンで思ったこと』
A.Y.

はじめて参加させていただき、タイニンで貴重な体験をさせていただきありがとうございました。看護師という資格で何ができるのか不安でしたが、グループの皆様によくしていただき感謝しています。暑くて、しかもトイレの関係であまりがぶがぶと水を飲めないというつらさはありましたが、それ以外は食事もおいしく、田舎の風景も素朴でよかったです。ほこりっぽい道や、水たまりだらけの道、土道に砂利がまかれている道など、はるかいにしえの子供のころの田舎道を思い出しました。それにしても運転手さんは池のような大きな水たまりを上手によけて、ぬかるみにはまることなくすいすいと且つ、くねくねと天才的な運転技術で私たちを目的の家まで運んでくださいました。運転が下手な私にはとてもできない芸当でした。訪問した家では当人や家族がちゃんときれいな服に着替えて待ってくださっていました。行く先々で人々が集まってきて、ものめずらしそうに私たちをみていましたが、特に子供たちはよその家だろうがなんだろうがおかまいなく、自由に出入りしているように見えました。昔は日本でもそうでしたが、地域のなかで子供たちが育っているように思えました。そのうちベトナムの田舎でも鍵をかけるようになるのだろうかとふと思ったりしました。

家庭訪問し血圧をはかって、いろいろなお話しを聞かせていただくことができました。ある聾唖の女の子を訪問した時に、楽しみはこんなふうに誰かが尋ねてきてくれることだと言われたことが印象に残りました。自分に何の責任も無いのに障害を持って生まれてきて、でも一生懸命に生きようとしている姿、またそれを田畑を売ったり、ローンをかかえたりして支えている家族の姿をみて、今、自分が勤めている病院の患者さんや家族の状況との違いについて考え込んでしまいました。国も違えば、病気も違えば何もかも違うので比べるのがおかしいのですが、比べてしまいました。豊かなはずの日本のほうが、実は貧しいのではないかと・・・。本当に不幸なのは実は日本なのではないかと・・・。

CBR活動も少しずつ充実してきているようで、タイニンの医療の向上につながっているようですが、人々にもっと知識があれば、もっと技術があれば、障害者の行動範囲も広がり充実した日々が送れるはずです。知識や技術のある日本に、ロイさんがリハビリの研修に来られることになってよかったと思いました。ロイさんがんばってください。応援しています。

食習慣とか生活習慣、風土などもっと詳しく知ることができれば、なにか役に立つことを言ってあげることができるかもしれないと思いました。訪問してすでに1ヶ月以上がたちますが、蚊にくわれながら毎晩飲んだホアビンホテルのベトナムコーヒーをもう一度飲みたいと思う今日この頃です。

 

『今年の感想(というか初めての感想文・・・)』
A.K.

今年初めて参加した人以外は、少なからず感じていたでしょう。一定の充実感を。

それは、この間のCBR全体の活動が成果として現れてきているのか(もちろん現れているとは思うのですが)、それともフックビン村が(モデル地区という名のとおり)タイニン省のなかでも優れた地域だからなのでしょうか・・・ぶっちゃけた話、タイニンリハビリ病院の機能訓練や評価、そこでの患者様の生活はとても改善してきていると感じます。でもそれが地域に還元されているのでしょうか・・・わたしは(はっきりいうと)十分還元されているとはいえないと思います。ま、そんな思いも含めてはっきりと結論付けるつもりはありませんが、今後の活動をすすめる上で大切かなと思っています。

経年的に同じ地域でCBR支援を行うことは、以前から必要だと思っていたので、今年、そして来年(その後はどうなる?)同じフックビン村で活動できるということには、大賛成! 大事なことは私達のかかわりと地域の変化をきちんと評価して次に生かせるということでしょうか・・・

タイニンリハビリ病院で最後に行った「まとめ」の時にも言いましたが、CBRワーカーの数を増やすことと、一人ひとりの対象者に対してどんなかかわりが必要なのか、またワーカーとしてどう関わっていきたいのかを(少しずつでいいから)明らかにしていくこと、これは来年の地域訪問班の課題にしていってもいいかな。今年・来年と関わるからこそ、できることと思います。カンファレンスもいいですね。

「地域」がおもしろくなってきました。来年も楽しみです。また、例年のタイニン訪問以外でタイニンへ行くことがあれば、ぜひ誘ってください。

 

『ベトナム訪問に参加して』
医学生 H.T.

家族が障がい者ということもあって、障がい者がどのように自立していくかや、障がい者と健常者の間に存在することもある壁のようなものについて興味を持っていた。また、外国で医療に携われたらと考えていることもあって、このベトナム訪問をたいへん楽しみにしていた。障がい者がどのように生活されているのかを知りたかったので、全日程を通してCBR班に参加させていただいた。

フックビン村の障がい者の家庭を訪問することは、たいへん楽しかった。ベトナムの人がどのような環境の中でどのように生活しているのかを垣間見ることができて、文化人類学的好奇心をある程度満足させることができたし、牛やら水牛やらアヒルのヒナやら犬やらをなでたり触ったりすることができて幸せだったし、それよりなにより障がい者と直接コミュニケーションが取れたことがとても楽しかった。ベトナム語はXin chao(こんにちは)とCam on(ありがとう)くらいしか言えなかったが、表情でけっこう気持ちが伝わったのではないかと思う。

一番印象に残ったことは、障がい者やその家庭が、おおむね家族や近所の人々と助け合って生きておられたことである。例えばCBRワーカーは、障がい者の生活を見守って、必要ならば病院との橋渡し役になるなどの援助を行っているのだが、彼ら彼女らはこの仕事を無給で生業の合間にやっていた。また、近隣の人々が障がい者や介助者の健康状態や生活状況をよく把握しており、必要な家庭には食べ物や服を分けたりしていた。障がい者のいる家庭は困窮している場合が多く、この援助のおかげでやっと生きている方もいた。社会福祉制度の不備を地域社会が補っているだけだと言われればその通りなのだが、障がい者だからと特別な配慮を受けていわば差別化されるのではなく、困っているからと手が差し伸べられる環境を、たいへんうらやましいと思った。

今回私ができたのは血圧を測ることだけで、あとはただにこにこ笑ったり写真を撮ったりして障がい者と交流することしかできなかった。障がい者や介助者、それにCBRワーカーは、我々がなにか実際的な援助をすることを少なからず期待していたように思うのだが、私はその期待に全く応えることができなかった。次回のベトナム訪問も、状況が許せばぜひ参加させていただきたいと思うが、その際にはなにかお役にたてるようになっていなければと思う。

最後に障がい以外の話を。たくさん面白い人と出会えて、またその人たちと一緒に食事やビールをはじめとするベトナムの風物に触れることができて、たいへん楽しく実りのある一週間だった。みなさんどうもありがとうございました。

 

 

『無題』
理学療法士  T.H.

ベトナム・タイニン省での活動は、非常に内容の濃い充実したものでした。私は健診班とCBR班の活動に参加しましたが、どちらの班においても日本とは全く異なる環境に戸惑うばかりでした。住宅は、壁がなく、藁葺き屋根。人々が患っている疾病は枯れ葉剤の影響と思われる先天性疾患など日本ではあまり接したことがないものばかり。また、医療施設は少なく、医療器具も十分に揃っていない。さらに経済的問題により満足のいく治療が受けられない。タイニンでの活動を通じて、ここに住む人々がおかれている環境が自分の中で少しずつ具体的になっていくと同時に、私が理学療法士としてここでできることはいったいなんだろう、と何度も考えさせられました。

4日間の活動を通じて感じたことは、“あと少し何かがあれば”ということ。歩行補助具や装具が出来合いのものでもいいからあれば、日本だったら。と思うことが度々ありました。しかし、ここはベトナム、タイニン省。無い物ねだりをしてもどうしようもないと言い聞かせ、自分が理学療法士としてできること“その人の能力を最大限に発揮してもらう”ことを念頭においてリハビリ支援をしたつもりです。また、逆に患者さんから教えてもらうことも多々ありました。印象的だったのは、先天的に上肢の発達障害があり、両側とも手指が1本しかない人。その人は1つしかない指と肘を使って字を書いたり、シャツのボタンを閉めたり、さらには仕事ではパソコンを使っていました。どんな障害があっても、いかに苦しい環境にいても、生きるために自然と自分の持つ力を発揮する。ベトナムでは、日本では感じることのできない、人間が生きるためのたくましさを感じました。

あっという間に過ぎてしまった今回の4日間。私はベトナムの人々から学ぶばかりで、自分がいったいどれだけのことができたのだろうと疑問に思うこともあります。一方で、あたたかく笑顔で迎え、見送ってくれた平和村の方々、タイニン省の人々の姿を思い出すと少しは力になれたのかなとも思います。医療制度の面、経済面においても厳しい環境ですが、その中で力強く、たくましく生きている人々。その背景にあるベトナム戦争と枯れ葉剤の問題。様々な角度からベトナムという国を知らなければ、適切なリハビリテーション支援はできないと感じました。また機会があれば、ベトナムに行きたいと思います。そのときは、もっとベトナムのことを知って、今回よりも力になれるようにしたいと思います。

最後に事務局の方々、一緒に活動をしてくれた皆さん、そして現地スタッフの方々のおかげで有意義な時間を過ごせたことを感謝します。ありがとうございました。

 

『再び、人生を考えたベトナム タイニン省での活動』
理学療法士 Y.A.
今回、2回目の参加です。主に、平和村での活動に参加させていただきました。予想通りに、小児の訓練は何をしていいかわからず、峰松先生や、坪田先生の診察や指導に見とれ、聞きほれ、いろんなことを学ばせていただきました。今年は成人の方の訓練もあったので、何とか少しだけ、その部分に関わらせていただいたしだいです。

今回も、平和村のスタッフの方はとても熱心で、丁寧に治療されていました。片麻痺の患者さんの固く屈曲した肘をゆっくりと伸ばしていく手技はポイントを押さえていて、彼女たちの毎日のアプローチが的確で、よく考えて治療されていることに感動しました。私たちも日々、努力しなければならないと思いました。

活動の中で、平和村のスタッフの皆さんの思いや暖かい心配り、入所されている子供たちの明るさやたくましさ、お母さんたちの深い愛情や切なる思いを感じることができました。日本でも病気や障害に向き合いながら毎日の生活を営んでいく人間の底力を感じることがありますが、それはベトナムでも同じだなと思いました。

社会・医療制度の問題で必要な検査ができない状況の中で診断し、治療方針を出していかなければならない医師の役割はとても重要です。そしてリハに関わるスタッフも疾患や障害を捕らえる力を育んでいかなければなりません。それは一つの手技で完結するものでもない。人間とは何かという深い主題をあらためて考えるきっかけになりました。「理学療法士としての更なる成長をめざそう」という思いを強くした今回の活動も、やはり人生を考える貴重な経験となりました。

来年は少しでも成長した自分で参加したいものです。

 

『ベトナムで感じたこと』
看護学生  H.A.

私は中学生くらいの頃から海外医療にとても興味をもっていました。なので、いつか海外で医療活動をしたいと思っていました。そして今回、医療行為はしなかったけど、この活動に参加させてもらうことができて本当に良い経験になりました。

私は、どのような活動をしているのかなどベトナムの事がほとんど分からない状態だったのではじめはただ海外の医療を知るというただ漠然とした目的しか持たないままベトナムへ行きました。

ベトナムでは主に母性班に参加させていただきました。去年の状況を少し聞いていたのでどのようなところに行くのかと思っていたけど、妊婦さんは3ヶ月に一回検診を受けておられ、また学習会にも参加しておられました。血圧測定をするのは練習していたけど久しぶりですごく緊張しました。去年は血圧がすごく高い人がいたということだったのですが今年は特に高い人もいませんでした。ベトナムの妊婦さんはほとんどが私と同じくらいの年齢の人ばかりで驚きました。訪問した家には多くの子供が集まってきていたので、子供は多いと思っていたけど政策のこともあって一人の女性が産む人数は少なかったです。訪問した家は床がタイルになっていて家具もすごく良いものが置いてあるところもあれば、床は外から続く土のところもあり、ベトナムにも格差があるんだと思った。訪問したところは日本と違い近所との交流が深いため協力しあって生活しているようでした。どこの家も旦那さんとの関係は良いようで妊婦さんも幸せそうでした。

検診班にも参加させてもらいました。検診では子供と一緒に遊んだり検診の様子を見学させてもらいました。子供たちはみんな元気に遊びまわっていました。言葉が通じないので最初はどうなるのかと心配になりましたが、そんな心配は無用でみんなで楽しく遊べました。

私がベトナムで特に印象に残っているのはツーヅー病院の見学です。特にホルマリン漬けの奇形の胎児はすごく衝撃的でした。先生の話によるとこれはまだ枯葉剤の影響なのかどうかははっきりしていないということでした。ツーヅー病院では子供たちが暖かく私たちを迎えてくれました。日本語で挨拶もしてくれました。小さい子が抱っこを求めてきて抱っこしました。親に捨てられて愛情が足りていないと聞いたときはすごくショックでした。でもツーヅー病院の子供たちはみんな明るくてずっとニコニコしていて一緒に遊んでいて楽しかったです。

長かったようで短かった、短いようで長かったベトナムでの一週間はすごく濃くて色んなことを感じて色んなことを考える良い機会になりました。ベトナムでは自分が何も出来ないことに対してもどかしく感じたり、色々なものを見て衝撃を受けたり感動したりして来年も行けるなら絶対行きたいと思いました。来年は今年の経験をもとにして新しい学びが出来たらいいと思います。そしてもっとちゃんとベトナムのこととか調べて勉強してから行きたいです。

 

『ベトナム地域リハビリテーションを支援する会に参加して』
岡山県  M.M.

「退職して暇になったんだから」とベトナム行きを、夫に誘われました。「飼っている犬や猫は、どこに預けようか。」「義母の三回忌が来るけど準備は大丈夫かな。」など気になることが沢山あってなかなか決心がつきませんでしたが、もう少し広い世界にも目を向けてみたいという思いもあり、参加することに決めました。ボランテアの経験がほとんどない私は嬉しさより「言葉もわからないのに、私に何ができるのだろう。」という不安感のほうが多かったように思います。岡山県倉敷市から参加した他の人達とは、出発の日に関西空港で合流しました。そして、4人の「楽しいトークと笑い」「親しみの良さ」に救われ、思ったより気楽な気持ちで初めての外国旅行となるベトナムに向かって出発する事ができました。

タイニン省での1日目は健診班に参加しました。公民館の前では、地域の患者さん達が、朝早くから診察開始を待っていて、現場に着くとすぐ健診を始めなければいけない状態でした。午後も患者さんは途切れることなく訪れ、先生方は扇風機もない暑い公民館の中で、休む間もなく熱心に健診をされていました。この支援する会の医療活動は今のベトナムにとって、必要不可欠であり、尊いものだということが伝わってきました。私は、診察に来た子ども達が楽しく待つ事ができるように、声をかけたり一緒に遊んだりしました。地域の子ども達も遊びにきて、私の日本語にうなずいてくれたり、笑顔をみせたりして気を使ってくれました。その人懐こさに居心地の良さを感じながら、2日間があっというまに過ぎました。

3日目はベトナムをもっと知りたいと思い、リハビリ班に参加させていただきました。平和村では障害を持った子ども達十数人が、家を離れてお母さんやおばあさんと一緒に施設で過ごしていました。この日は日本のスタッフが子ども達のリハビリに役立つ造形活動や遊びを計画し、実践していく中で、現地の職員が技術や遊びの盛り上げ方などを体得していく様子を見させていただきました。職員が遊びを盛り上げると、お母さん方が笑い子ども達が笑う。楽しいひと時を過ごさせていただきながら「笑って育つ事が大事」とあらためて感じました。

わが子の障害を受け入れ、共に育つことは、並大抵な事ではできないと思いますが、ここでのお母さん方は明るく、何のわだかまりもない様子で私たちの問いかけに答えてくれました。又、2歳になってもまだ首がしっかりすわらない子どものお母さんが「この子は私が歌をうたうと泣くのをやめて笑ってくれる。」と、子どもを見つめながら、明るく歌をうたってあげている姿が印象的でした。でも「この子は治るのでしょうか。」と日本から参加していたドクターにすがるような気持ちで尋ねている姿から不安感や焦りも伝わってきて、複雑な気持ちになりました。子ども達一人一人が発達に応じた療育やリハビリ、専門的な医療が受けられるようになったらいいかと思いますが、それは現地のスタッフや先生方の力に委ねるしかないのかもしれません。

4日目は障害者についての生活実態を調査する活動をしているCBR班に参加させていただきました。午前中は留守の家庭もあったりして一軒しか訪問する事はできませんでしたが、つつましい生活の中で、自分の健康より娘の仕事がうまくいくように願う、脳血管障害を抱えたおばあさんの願いに、なにか心打たれる気持ちになりました。

この日の午後はCBR班の各グループの訪問活動のまとめの会にも参加させていただきました。CBR班のスタッフが4つの班に分かれて、現地のCBRワーカーさんの案内で、各々20件近くの患者さん宅を訪問し、生活状況など聞き取り調査をした報告がされました。家族で病人を見ながら、支え合って生活している現状や若い人が出稼ぎに行っている為、症状が悪化した時に、病院に行きたくても、連れて行ってもらう事が出来ないなどの問題が報告されました。現実の厳しさの中で、光ある話題は、障害や病気を抱えている人達の為に、無償で活動を続けているCBRワーカーさんの存在でした。長い人は12年間も続けてこられ、そのお話の中で「近所で困っている人がいると見捨てる事ができませんと」と結ばれていました。弱者に優しい助け合いの精神とCBRワーカーさんのネットワーク作りが根付いていく事に期待したいと思いました。

日本では、『病気や障害があっても、しっかり生きていく力を身につけることが大事』心ある人達は『障害を持っている人に優しい社会でありたい』と願い、ボランティアや家族の支えの中で、明るく生きている人たちの姿をテレビで放映したり、保幼小から障害児教育に力を入れたりしながら社会全体で取り組むようになってきました。しかし、ベトナムでは社会参加できるようになる為の施設も少なく、学校でさえ障害を持つ子の受け入れが十分ではないと聞きました。ベトナム戦争が終わってまだ33年程しかたってないのでそれも仕方がないことかも分かりません。

タイニン省での日程が終わり、観光でマングローブを見に行ったとき、船の中で、古びた教科書をビニール袋に入れて座っていた姉妹に目が留まりました。将来何になる為に勉強しているのか聞かれ、姉は「私はナースになりたい」妹は「ドクターになりたい」と答えていました。日本の子ども達は知らない外国人にこんなに素直に自分の夢を語ることができるでしょうか。タイニン省で出合った子供たちも素直で明るく、向こうから興味を持って近づいてくれました。日本語に興味を示し、日本にいって勉強したいという子もいました。・・・・枯葉剤の為に荒れ果てた原野も今は甦り緑で覆いつくされていました。戦争ですべてを奪われ、そこから復活しつつあるベトナム・・・・。障害を持って生まれてきた子への支援や医療はまだまだ進んでないかもしれませんが、ベトナムで生きている人たちのたくましさと、未来を支えていく子ども達の可能性を確かに感じることができました。

今回のベトナム訪問は私自身、何も役に立つことはできませんでしたが機会があれば又、行ってみたいと思っています。ベトナムのこれからの発展とベトナム地域リハビリテーションを支援する会の活動がいっそう花開く事を願ってやみません。ありがとうございました。

 

『ベトナムでの洞察と発見』
理学療法士 O.H.
2008年7月27日から8月4日まで、ベトナムに滞在し「ベトナム・タイニン省の地域リハビリテーションを支援する会」に参加させて頂いた。理学療法士になって二年目の夏、自分が参加して力になれるかどうかは甚だ疑問であったが、その部分には目をつむっていただき、私自身がこの旅を通じて考えたこと、そして発見したことを簡単にまとめておきたい。

タイニン省での活動で、私はCBR班に所属した。具体的な活動内容は、在宅の障害者について、生活実態を調査するというものである。

多くの場合、在宅の障害者は脳血管疾患後の後遺症であったが、CBRワーカーと呼ばれる人がその生活に介入し、生活指導やリハビリ指導を行っていると聞いた。現在の問題点として、各ケースによって介入頻度が異なることや、各CBRワーカーの知識に差があることは事実である。しかし、役場が中心となり、そこから各地区を担当するCBRワーカーが地域の障害者を訪問し地域のネットワークを創っていこうと努力している姿には、私自身感動した。

地域を組織化していく事は、中心となる場所(役場)からの情報発信に関して、地域を包括的に支援するマンパワーと、役場の狙いに対し地域住民が理解を示す、という双方が重なり合うことが必須条件であるように思う。情報が得やすい、いわゆる先進国であっても地域組織化は時間と労力を費やすであろう。

しかし、タイニン省での活動を通じて、地域リハビリを積極的に進めていこうとしている熱意を強く感じ、今後も出来る事を探し、何らかの力添えをしたいと考えている。蛇足ではあるが、訪問を通じて「プラスチック装具があれば・・」とか、「ここに手すりがあれば・・」という場面が非常に多かった。今の自分に何が出来るか、大きなヒントになったと考えている。

最後になるが、ベトナムという国、なかなか「すげえ・・」国である。先進国を凌ぐような都会的な部分と、タイムスリップしたかのような農村の景色。そしてギラつくような若者たちの熱気。ベトナムの過去は戦争抜きには語れないが、ベトナムの未来は、共に平和と人類の可能性を追及していく輝かしいものであると確信している。

今回の旅を通じて出会った人、物、出来事、すべてに感謝しています。ありがとうございました。

 

『百聞は一見にしかず』
T.M.
松本さんがやっている事だからと何の怪訝もなく仲間にしていただきました。動悸は不順だったかもしれませんが、観光旅行しか経験なかった私にそれ以上のものを残してくれました。本当に何も知らないままの参加で皆さんの足を引っ張らないようにしようと思いながら、哀しいかな、何が迷惑なのか気の使い方さえ分からない状態でした。寛容なメンバーの皆さんに励まされながら久々の緊張を嬉しく感じました。 現地のCBRワーカーさんの案内でお尋ねした何方も白髪の私にことのほかやさしく接していただきくすぐったいほどでした。同時に日本人が失ってしまった助け合い支えあい仲良くクラス術を全うしている人々の行き方に自らの生き様を重ねて自省の念でいっぱいです。

医療制度もリハビリ機器も日本ならと考えてしまいましたが、日本においても六十年前は国民皆保険とはなっていなかったし私が高校卒で就職しようとしたときは三千円が地方民間会社の初任給だったと記憶しています。社会福祉の授業で病気が貧困を、貧困が病気を、の悪循環を繰り返すと習いましたがベトナムはゆっくりと歴史をすすめているのでしょう。

私事で恐縮ですが専門学校卒業後、倉敷医療生協水島協同病院で全国民医連の綱領の元四十年の定年まで働いてきた事を間違ってなかった事を確認しました。人々の真の意味の健康を多くの仲間と護る仕事をした事を・・・。

枯葉剤の影響はききしに勝る悲惨なものです。そして戦後三十年後の今なお新しく生れて来る子供が障害を持っていることの理不尽さに怒っています。医療現場で働いた者として人々の幸せを阻害する一番大きな力、戦争という愚行はもう沢山です。原爆忌も終戦記念日もしくまれた北京オリンピックの報道の影で忘れられそうに感じるのは私の僻みでしょうか。

おりしも介護保険料改定という値上げの知らせ所得税を引いた年金支給通知が届きました。

 

『ベトナム感想文』
T.J.

3年前、松本氏からベトナムの話を聞いてぜひ参加したいとおもっていました。念願が家内、参加できて満足しています。

岩崎ちひろの絵本を通してベトナム女性のたくましさ、やさしさを感じていました。助産師となり、その思いは強くなりましたが、チャンスがありませんでした。1ヶ月前から体力づくりをして参加して健康面は迷惑を掛けずに済んだ事が何よりでした。5日間はあっという間に過ぎ毎日が感動、刺激的でした。

母子保健の現状はまだまだですが、検診が3回義務化されていることか始まっている事は明るいといえるし、「個人から集団」「母子手帳」課題も見えてきました。

最後の日の見学で「ガラスの中の胎児」はとても直視できず、部屋から飛び出しました。

その後、母親はどんな人生を歩んでいるだろうか・・・。

さて不純な動機で参加した私ですが熱い思いの皆さんと一緒に参加し、行動させていただいたことに感謝します。

我家の体重計が3キロもオーバーしていて自分でも驚きでした。

 

『タイニン省リハビリ支援活動に参加して』
看護学生  M.M.

私はもとより、世界の紛争地域、貧困地域に対する医療活動に興味をもっていました。そのこともあり、ベトナムで障害をもっておられる方達へのリハビリ活動を行っているこの活動にも興味をもち、今回参加させてもらうこととなりました。

4日間の活動のうち、3日間を検診チーム、1日をCBRチームの中で過ごさせてもらいました。検診チームでの学生である私の役割は、検診待ちの子供達と遊ぶこと。想像はできていましたが、始めは子供達も警戒しているのか、なかなか打ち解けることはできませんでした。しかし、時間がたつにつれて次第に子供達は笑顔をみせてくれるようになり、積極的に近づいてくれたり、片言のベトナム語の挨拶をする私に、笑いながら正しい発音を教えてくれるなど、とても楽しい時間を過ごすことができました。障害をもっているという子供達も一緒に笑って、折り紙を折ってくれるなど、すごくキラキラとした笑顔をみせてもらい少しは役にたっているのかな、と充実した気分でいました。

しかし、3日目にCBRチームに参加させてもらった時、現実を知らされました。何件か、検診にも来ていた子供の家を訪問させてもらいました。が、そこには、前日楽しそうにしていた子供達の笑顔はありませんでした。なぜ、彼らは気むずかしい顔をしているのか、話をきいていてみえてきました。彼らは、障害があるからという理由から、家から出してもらえなかったり、家庭内のことを何もさせてもらえなかったりなど、小さな体や心で制限された生活をおくっているということでした。また、今1番何がしたいか、といった質問に対して、「隣の子らと一緒に遊びたい」と返した子供を辛そうにみる親の顔から、我が子に制限を強いている親もまた、同じように苦しんでいるということも知りました。私は、彼らにかける言葉も笑顔にさせてあげることもできませんでした。訪問させてもらった方の中には、自分はすぐに頭痛がするし、高血圧でもある。だから、すごく苦しいんだ、といったことを言葉や目で訴える人もいました。そんな言葉を聞く度に、何も言えない、できない自分が悔しくてたまりませんでした。自分は、学生でまだ知識も技術も何もない。苦しんだり、悲しんでいる人を前に何もしてあげられることがない。そう考えると、私は何をしに、何のためにここに来たのだろう。ただ、ベトナムがどんな状況であるか勉強するためなのか。何もできていないのに、ここにいる意味は、必要はあるのだろうか、と悩みました。そんな風に思っていると、早く看護師なりたい。看護師になれたら、きっと考えることも、できることも今とは変わってくる、と感じるようになりました。今の私では、何もできないままです。どんな時でも、子供達には笑っていてほしいと思っています。

私は、今回の活動を通して、改めて看護師になるんだと、と強い決意をもつことができました。また、自分が成長できた時にはぜひこの活動に参加させてもらいたいとおもっています。

 

『笑顔』
看護学生  S.H.

私がこの活動に参加するきっかけとなったのは、近看の先輩の方々がこの活動に参加していたと事務長に聞かされたことがきっかけです。「命について考える機会とする」という大胆な目標を抱え、初の海外だったこともあり、期待とそれよりも大きな不安に浮き足立ったスタートでした。

今回私は、リハに興味があったのと、障害を持った子供が多くいるという興味から平和村で活動をするリハチームに参加させていただきました。そこでまず看護学生の自分は主に何の役ができるのかと考えました。健診班や母性班ならば、バイタルサイン測定など少しは役に立つことができたと思います。しかし、リハとなると・・・。一人だけぽつんと残されていることに無力を感じました。そんな時、前夜に先生方に「子どもたちと遊んであげてね」と言われていたことを思い出し、ならばとことん遊んでやろうじゃないかと心を燃やして遊んでいたわけですが、裏返せばだいぶ遊んでもらっていたように思います(汗)。そしてお約束ですが、やっぱり子どもは容赦しらずでした、痛うれしかったです。

子供たちと遊ぶ中で一番困ったことがコミュニケーションです。通訳さんは訓練につきっきり。言葉が全く通じない状況で考えたわずかなコミュニケーション、それが表情とジェスチャーでした。指を指して「あっちにいこう!」、「2対2で勝負だ!」。勝ったときは笑顔で抱き合い、ハイタッチをしたり。負けたときは「負けたー!」と笑いながら大の字に寝転がったり、一緒に悔しがったり。この時は異国間をすっかり忘れていました。レクリエーションの時なんかは、日本のスタッフ・ベトナムのスタッフ・子ども・お母さんたちまで一緒になって笑いました。笑顔は国を超えます!!そして、この活動の中で一番心に残っていることは、最終日、会議の前のことでした。レクリエーションで行ったカレー作りを終えて一息ついていると、下肢に強い麻痺のある特に良く遊んでいた子が小さな身体で思うように動かない足を必死に動かして、棒に捕まりながら震えている「2本の足で立って」ゆっくりこっちへ歩いてくる。「がんばれっ!」と言いながら手を差し伸べ、私にたどり着いた瞬間。私は感情が抑えきれずに思わず抱きしめ支えました。そして、顔をくっつけて笑い合いました。お母さんが笑顔で私の肩をポンっとたたいて手を取りました。「ありがとう」と。それだけははっきり分かりました。私も深く「ありがとうございました」と日本語で返しました。

振り返ると、今回の活動で私のしてきたことはちょっとした観光とただ子供たちと遊んでいただけでした。支援活動ではなかったのか?と言われるともう土下座で笑うしかないです。もっと知識や技術があれば先生方のような健診やリハビリができたと思います。ただ、逆に考えると人の「心」の部分と多く触れ合うことができたように思えます。この活動で私が学んだこと、それは人が生きる中でとても大切なこと「笑うこと」です。この一週間は本当に良く笑いました。「笑う」ことは幸せの象徴。年齢や国境なんか関係なく人を繋ぎます。多くの人との出会い、異国間のつながり、異文化での体験、リアルな現状は自分を見つめ直し、自分の世界を広げるとても良い機会となりました。これから看護師を目指す者として、人間として成長できた濃い一週間だったと思います。来年は実習があり、難しいと思うのですが、できれば参加したいと考えています。次は問題を考えることができ、ちゃんとした活動ができるように勉強をしてから・・・。

最後に、この機会を与えて下さった皆さん、支えてくれた皆さん、行動をともにした皆さん、関係者の方々に感謝したいと思います。ありがとうございました。

 

『タイニン省の支援活動に参加して』
看護学生  S.N.

今回私は、近畿高等看護専門学校の学生ボランティアとして、ベトナムのタイニン省の支援活動に参加さしていただきました。高校の時から話を聞いていて、行きたいという思いがあり、今回行くことができ本当に嬉しかったです。行く前は嬉しさとは反面、看護学生1年の自分に何ができるのだろう…と不安もたくさんありました。しかし、家族やクラスの人たちに後押しの言葉をもらい、自分でも色々なことを考え、今自分に出来ることを精一杯やり、行きたくても行けなかったクラスの人たちの分、たくさんの事を学び、感じ、伝えようと思いました。今回私は初めての海外進出でした。飛行機は初めてではなく、さほど緊張しないだろうと思っていましたが、実際飛び立つときはすごく興奮しました。横に座っていた尾崎先生にはたくさんの迷惑をかけたことだと思います。でも尾崎先生が横の席で、ベトナムに着く前にたくさんの話をしていただき、楽しかったです。ベトナムに着いたときは、あまり実感はなく、国旗を見て改めて実感しました。ベトナムは話に聞いていたとおり、原付バイクがたくさん走っていました。バスはすごくスピードが出ていていつ事故を起こすか心配でなりませんでした。と思っていると、スピード違反で捕まりました。これも1つの思い出です。国営のホテルに着きました。するとヤモリがたくさんいました。凄く可愛かったです。ベトナムでの、ご飯は野菜と果物がたくさんありました。薬味が効いているのもありましたが、基本的にはおいしかったです。私が一番気に入ったのは毎朝朝食にでていた白いお粥スープみたいなやつでした。3食それでもいけるぐらいです。

私は、4日間母性チームに参加させていただきました。助産師のかたが2人もおられ、吉田さんは近看の先輩でもあり、たくさん話を聞けて凄く勉強になりました。母性チームは、午前と午後、妊婦さんのおうちに出向き、妊婦検診を行いました。妊婦さんには前もって考えていた質問をしたり、血圧をはかったりしました。妊婦さんの表情を見ていると、不安そうな顔をしていたり、嬉しそうにニコッとしてくれたりとまちまちで、どんなことを感じるのだろう…と思っていました。しかし帰り際には、必ず笑顔で見送ってくれていました。私は主に、日本から持ってきた服やおもちゃやお米を、まわった家ごとにプレゼントしました。妊婦さんによって、家で安静にしている人や働きに行っている人それぞれであり、同じ地域に住んでいても、貧困さはバラバラだと感じました。しかし昨年と比べると大分妊婦さんたちの意識は良くなっているということでした。私は、妊婦さんに関しての知識もタイニン省などの貧困な地域での現状もほとんど知らなかったので、1つ1つ全てが学びであり、驚くこともたくさんありました。そして、解決しなければいけない問題や、ソーシャルワーカーさんの働きなど、たくさんのことを考え、知ること出来ました。私は横でただ話を聞くことしかできなくて、吉田さんや佐藤さんや平良さんの対応をみて勉強さしてもらっていました。いずれかは、しっかり貢献できるようになりたい!!とすごく思いました。その為にも、これからたくさん勉強して、色々なことを経験し、立派な助産師になることを強く決意しました。向こうで覚えた言葉は、シンコンフェーマン・シンチャオ…元気な赤ちゃんを産んでください・ありがとう…この言葉をずっと覚えていて、ぜひ来年も参加さしていただきたいと思いまいた。

 

『ベトナム・タイニン省地域リハビリテーション支援活動を体験して』
大学生  I.R.

私は今回初めて参加させていただきました。ベトナムに来たことは初めてで、見るもの、聞くもの全てが新鮮で興奮しました。飛行機から見る赤茶けた大地やうっそうと茂るマングローブ、ライトな味わいの333(行きの飛行機からN先生と飲んでしまいました!)、物凄いバイクの数!、中国やフランスなど複数の文化が入り混じった不思議な雰囲気等々、到着当初から大変興味深かったです。そして何より活動を通じて、現地の方々と特別な関わりを持つことが出来たことは大変有意義でした。4日間ともすべて異なる活動に参加させて頂いたおかげで、活動全体を見ることが出来ました。
私が特に印象に残ったのは2日目のCBR班で各障害者のご自宅を訪問したときのことでした。異なる教育システムや医療事情ゆえ、障害をもって生まれた時点で非常に大きく人生が制限されてしまう、そんな現場を見て、言い表しがたい悲しい気持ちになりました。例えば1件目に訪れた難聴の女性は19歳で、一見健康に見えましたが、これが原因で車の警笛が聞こえず事故にあい、頭に大きな怪我をしてしまったそうです。手術のおかげで一命は取り留めたものの、月収50万ドン程度(約3500円)の家庭に1万ドルの借金が生じてしまったということでした。彼女はその後遺症に苦しんでいるだけでなく、聾学校等にも通うことが出来ないため、友達も出来ず家でひっそりと暮らしているということでした。日本では19歳とは青春や友情を謳歌している年齢である一方で、ベトナムのこのような子を見ると胸が痛みます。貧困とは本当に残酷なことだと実感しました。

「障害を持った方々が社会と関わりあえるようにするにはどうすればよいのでしょうか?」、と様々な職種の方々と意見を交わしながら、私自身も考えることが出来ました。同時に、より基本的な姿勢として、あるコミュニティーにおける問題点に対し医療者はどのように働きかけることが出来るのか、ということについても考える切っ掛けになりました。今回の貴重な経験を将来に役立てていく所存です。最後になりましたが、素敵な笑顔を見せてくれたベトナムの人々、そして本活動に対して情熱を注ぐ皆様との出会い、本当に素晴らしかったです。この新しい出会いに感謝すると共に、貴重な機会を与えてくださった皆さまに対し、心より厚く御礼申し上げます。

 

『ミーちゃんのこと』
小児科医  O.Z.
今回の訪問中に、どうしても記録に残しておきたい出来事があった。健診初日ホン先生から「去年診察した心臓病の女の子、手術しましたよ」と声をかけていただいた。情けない話で、まったく忘れてしまっていた話だ。いろいろと話を聞かせていただく中で、昨年のチャウタン県の別の集落での健診で、先天性心疾患の子どもたちを数人診察したことを思い出した。その一人がミーちゃんだった。はっきりと思い出した。顔色が悪く、つめが心疾患のために丸く盛り上がっていて、学校にも行けないと言ってた女のこのことだ。「検診が終わったら会いに行きますか?」とのお誘いにもちろん「お願いします」と返事。送迎の車を降りて、舗装もないでこぼこ道を歩くこと20分くらいだったか・・・・。タイニンの農家によく見られる開放的でこざっぱりしたお家。そこに顔色のよくなった元気そうな顔をしたミーちゃんが待っていてくれた。ミーちゃんもうれしそうだったけれど、お母さんも涙、涙で感謝の気持ちを表現してくれていた。伝え聞くところによると、去年のお母さんは、「もうミーちゃんのことはあきらめました。次の子どもに期待します」といって大きなおなかをさすっていたとのこと。そして今年になって生まれた赤ちゃんを抱っこするお母さんは本当に幸せいっぱいだった。実はこれには加藤登紀子さんからの資金がかかわっている。加藤さんは西村先生ご夫妻を通じて私達のNPOのことを知り、コンサートなどでカンパを訴えていただいた。その活動を通じて集まったお金を私達に託していただけたので全額平和村に寄贈した。それがミーちゃんの手術のために使われたという。これまでわたしたちは一人ひとりの具体的な治療のための支援はしてこなかった。一人の支援で終わったら本当の地域の発展につながらない、これが原則的な立場だったからだ。しかしミーちゃんの姿を見て考えさせられることは多い。これからも個人の支援が私達の活動の中心になることはないと思う。が、出会いがあって、機会があって、条件があれば具体的な治療という個人支援もしていけたらいいのにと思う。

 

『この夏、フックビン村で考えたこと』

理学療法士  FD

ことしの夏、ベトナムで、また一つ大切なことを学びました。

フックビン村での懇談会、「ほとんど無報酬なのに、どうしてCBR活動をしてるのですか?」という質問に、「自分の近くに困った人がいたら、放っておけませんから…」少しはにかみながら、フックビン村で活躍するCBRワーカーさんは、さらりと答えました。それは当たり前のこと、でも大変なこと、だけど人間にとって一番大事なこと…ものすごく印象的でした。

ホアビンホテルでヤモリの鳴声を聞きながら考えました。35年前から考え続けてきたこと…リハビリテーションとは何だろう?

こんなこと考えました。

「リハビリテーションについてお話しします。それは、障害をもつ人を訓練することだけではありません。障害をもって生きる人びとが「人間らしく生きる」ことを支えてゆく、営みなのです。医療も必要です。訓練も、教育も、仕事も、お金も必要です。だから、みんながこれを支えてゆく必要があります。障害をもつ人は、声高く社会に訴えることはできません。多くの障害者は限られた範囲の中でしか生活できないからです。でも障害者はいろんな努力や工夫で、生きる力を発揮しています。フックビン村にも、障害をもってなお生きる人びとがたくさん住んでいます。CBRワーカーさんが、そういった人々の一番近くによりそい、悩みを聞き、励ましています。みなさんは、障害者が生きることの根底を支えている、まさにリハビリテーションをしておられます。同時に、声小さき障害者の代弁者として、社会にその要求をとどける役割をされていることも知りました。

フックビン村のCBRワーカーさんの素晴らしい活躍に本当に感動しました。

みなさんの働きに、公的な位置づけとふさわしい報酬が得られることを願っています。また来年お会いしましょう!」

…ハア、ここは地下鉄の中か…、次で降りなアカン。

大阪の慌しい日常の方が、ホアビンホテルで見ている夢なんやないか、と最近思います。

また行きたいなあ…

 

『直前に感じたこと、分離手術20周年』
N.Y.
今年初めてベトナムへ行ったのは6月25日から8月2日まででしたがベトナムへ帰ると云う気持ちもありました。われながら変な感じでした。今回は健診・リハ・CBR・母班の本隊が来る前にタイニン省リハビリテーション病院へ行ったとき感じたことです。

① これまでは事務棟と病棟を結ぶ廊下には必ず子どもと母親の2家族くらいがイスに座ってボーっとしていたのですが、今年はそのような風景はなかった。

② これまでは事務棟のとっつきの職員室?には2~4人がいつも待機していたのですが、今年は誰もいませんでした。

③ 帰るとき警備の人にバイクでバス停まで送ってもらいました。彼は「私は専門的なことは分りませんが、病院の雰囲気は確実にかわっています。」と言いました。

帰りのバスの中でシー病院長との話も新鮮な感じがし、今年の健診・リハ・CBR・母性の活動は上手くいくのではと思いました。

2008年10月4日はベト・ドク分離手術があってから20年になります。今回の訪越では当時手術に関わった方々にインタビューできたり、手紙をいただいたので、それを報告に代えさせてもらいます。

○ ツーユー平和村タン科長の話(専門:小児科、ホーチミン市出身、1959年生まれ)

ツーユー産婦人科病院に勤めるようになったのは1989年(分離手術後、平和村が出来る前)で病院内で産まれた先天奇形の子供たちの部屋で彼らを診ていました。(1990年この部屋は西ドイツの支援で)平和村が出来てからは先天奇形児(枯葉剤/ダイオキシン)児、孤児、貧困家庭の子ども達を育て上げることが目標で、ずっと変ることのない目標です。分離手術は私が、この病院に務める前のことなのでフォン前病院長やチュン副村長に聞いてください。チュン先生は今、副村長室に居るので連絡します。

* この時、昨年定年退職したがボランティアで今も平和村で働いている助産師のテンさんが部屋に入ってきて「私も分離手術のスタッフに入れてもらっていました。」手術室には入れませんでしたが命令された器具を準備していました。」と教えてくれました。

○ ツーユー平和村チュン副村長の話(専門:産婦人科、ベンチェ省出身、77才)

ベト・ドク分離手術が日本で行われたと思っている日本人が多いのは’86年ベトが脳の病気で(危篤状態になったとき)日本へ行き、日赤で処置してもらい命を取り留めた。あのとき、私(当時副病院長)とフォン前病院長(当時副病院長)が同行していました。当時も日本の医療は進んでいたので分離手術を依頼した。日赤は手術をするかどうか迷ったようですが、やってもらえませんでした。’88年私どもの病院で手術をする時、ベトナムはまだ貧しかったので日本から手術器具、薬、資金の支援を受けました。そういうことがあったからでしょう。ベト・ドク分離手術についてはツーユー産婦人科病院からホーチミン市衛生保健局へ申請した。これを受けてユン・カン・チュン主席がホーチミン市衛生・保健局の総力(オール・ホーチミン市)でベト・ドクの分離手術を行うことを決定した。
①   ツーユー産婦人科病院で手術する。
②   ホーチミン市の病院からスタッフを選抜する。
③   ベト君もドク君も生かす。
④   分離手術と術後のドク君側のチーフはチャン・ドン・ア医師、分離後のベト君側のチーフをヴァン・タン医師、副をチャン・タン・チャイ医師、現場の責任者はグエン・ティ・ゴク・フォン、タ・ティ・チュン両副病院長(当時)等が決定された。

現場責任者に私たちが選ばれたのはベト・ドクのことを一番よく知っていたからです。ホーチミン市の病院から70名のスタッフが選ばれました。手術前、何度も会議を重ねました。でも手術には不安がありました。多分ベトナムで初めての分離手術だったと思います。成功するかどうか、2人とも生きているかどうか。ベトは手術後長生き出来るとは思っていませんでした。だから、去年ベト君が亡くなった時、特にどうと云う事はなかった。本当によく頑張ったと思う。今年は分離手術20周年になるので、もう一年頑張って欲しかった。

そうそう、手術前スタッフはフォーを食べてから始めました。詳しいことを書いた冊子があるのでコピーしておきます。写真もいいのがあったら使ってください。

* タン科長が5分前に連絡して下さったのですが、快くインタビューに応じてくださいました。私がチュン先生に母親に似ていますと言うと、お姉さんでしょうと訂正されました。

* この後、タン科長はフォン前ツーユー産婦人科病院長、ヴァン・タン医師、ドク君、チャン・ドン・ア医師、チャン・タン・チャイ医師、ユン・カン・チュン元ホーチミン市衛生・保健局主席に連絡しますと言ってくれました・(ヤッターヤッターヤッターマン。)タイニン調査・健診も迫っていました。

○ ツーユー産婦人科病院フォン前病院長の話(専門:産婦人科、ビエンホア市、1944年生まれ)

私が枯葉剤/ダイオキシン被害に関心を持つようになったのは医学生だった’65年からですが、研究を始めたのはツーユー産婦人科の医師になって(’69年)からです。

’69年フランスでの国際会議でハノイ大学のトン・タッ・トン博士がベトナム戦争でアメリカが撒いている枯葉剤/ダイオキシンの深刻な被害報告をした。これが反響を呼び、アメリカは’71年から撒布を中止した。’83年ホーチミン市で「戦争における枯葉剤/ダイオキシンの自然に与える長期的影響」国際シンポジュームに参加したアメリカの科学者が撒布地や被害者の統計を発表した。発表した数名の科学者が職を解任された。アメリカは枯葉剤は植物にのみ影響があり、人間にはないとしてきた。しかし、’85年自国の(ベトナム戦争)退役兵やその家族の被害者と(判決が出る前日)和解した。しかし、外国人には何の保障もしていない。IOM医療省は枯葉剤/ダイオキシンで出る13の症状を発表した。世界の世論の後押しでベトナムのダイオキシン汚染地5ケ所(ベトナム側の要求は10ケ所)をきれいにすると発表した。ダナン基地跡、フーカット基地跡(クイニョン市郊外)、ビエンホア基地跡、トーティンフエ省アルイ県、チャノック基地跡(カントー市)だが実際工事が着工しているのは最初の3ケ所だけである。’07年米国政府は30億ドルの援助を与えると発表したが、まだ実施されていない。

ベト・ドクは’81年コントム省サタイ県病院で二重胎児として産まれた。(数日経っても親が引き取りに来なかったので)病院はハノイのトン・タッ・トン博士の下に送り、二人はベト・ドク友好病院で育てられることになった。しかし、体が強くなかったので冬のあるハノイよりホーチミン市の方が良いとの事で’82年ツーユー産婦人科病院に送られ、現在に至った。両親が彼らを捨てたかどうか私は知らないが、父親は彼らが生まれて間もなく家を捨て別の家庭を持った。’88年分離手術をする時、親のサインが必要で、TV朝日の方と私は母親を探しに行った。母は彼らの姉と暮らしていたが、家というようなものでなく、着ているものもボロボロだった。意識不明になる前のベトはおとなしくて賢い子だった。ドクはいたずらというか、おっちょこちょいと云ったところ。二人ともサッカーが好きでソ連のサッカー選手ダセエップのようになりたいと言っていた。

’86年ベトが脳が小さくなる病気になった(危篤状態になった)。この時、日本は直行便を出してくれ、夜になっていたが日赤の医師団は検査・会議・処置を続けて下さった。引き続き日本へ移し処置した。ユン・カン・チュン主席も日赤へ行った。二人に状態が良くなったところで日本での分離手術を依頼した。何度も会議を持って下さったが、日本で手術しないことが決まった。二人を元気な状態で帰したかったようだ。この時、ベトナムで分離手術をする場合、資金・薬・器具の支援をすると言ってくれた。障害者への支援については手術や整形をしてあげたい。優秀な医師を派遣して欲しい。これはベトナムの医師の技術向上にもつながる。

* 約束の時間より10分早く行ったが、博士の方が早く来ていた。「私のほうから(一方的に)話しましょうかと言ってくださったが、質問に答えてもらう形でお願いした。1時間のインタビューの後、ハノイの会議に行かねばと空港に向かわれた。
○ ビンヤン病院ヴァン・タン前副病院長の話(専門:外科、クアンチ省、1938年生まれ)
ベト・ドク分離手術は世界で7例目の手術で未知の世界だった。これまでで一番印象に残る手術だった。スタッフのドン・ア医師やタン・チャイ医師とは、それまでも同じ仕事をしたことがあった。手術前の会議で手術方針について、いろんな意見が出たが最終的にドン・ア医師の”ドク一人を生かす”と言う意見と私とフォン医師の”ベトもドクも生かす”と言う意見が残り、何度も検討の結果私どもの意見が生かされた。難しかったのは大腸や静脈が1本しかなかった。(他にも1人前しかなかった臓器があった。)手術のとき’86年の日赤の検査が非常に役立った。手術中も次々に難題が起こったが解決していった。分離が終わった時点で二人が生きていたので、その時点で二人とも生きていけると確信した。日本から医師が参加してくれていたが彼は術後(ベトが)死んだと思ったようだ。

手術後も定期的に診ていたが、2ケ月後(ベトの)人工皮膚が破れた。どうしたらいいのか分らなかったが、2枚重ねることを思いつき、どうなるか分らなかったがやった。この時もベトは発熱が多く、やりかえる時期を決めるのが難しかった。また分離後ベトの体には、ない臓器や普通の人の1/3や1/2しかない臓器があり、人間の体に造るのが難しかった。

ベトが手術後19年も生き抜いたのは手術が成功したからではなく、ツーユー産婦人科病院が彼をしっかり看護し、事があれば関係する医師を招き治療し続けたことによる。ベトが亡くなる前、関係者は悪化しているのに気が付いていなかった。人工皮膚で覆った内部に緑色の膿が溜まっていた。針で刺すと10cmも飛び散った。スタッフが集まり、会議を持ち、手術することを決めていたが、手術に耐える体力に回復せず亡くなった。ベトの死後、解剖を依頼されたが19年も頑張った彼の体に傷を付けたくなく断った。

若い医師へのメッセージとして「医者として一番大切なものは高度な技術をもつことは勿論だが、それ以上に熱い心と責任感を持つことが大切。」と語った。

* 昨年末、開腹手術後間もないヴァン・タン医師をビンヤン病院に見舞いに行った時、初対面の私に「ベトの死は辛い。私は何も出来なかった。」と言った。

* インタビューをお願いした時、日本で手術したタムさんの腿の腫れが引かないことを告げるとタムさん(以前彼女はヴァン・タン医師に8kgの腫瘍の切除手術を受けた。)も一緒に来て下さいと連絡があった。インタビューと診察の後、これから手術があるのでと(定年後もボランティアで働いている)ビンヤン(平民)病院へ帰られた。ヴァン・タン医師はサイゴン医科大学を主席で卒業し、教授になるための課程で勉強を続けた後、軍医となりベトナム中部の病院に勤めた後ビンヤン病

院に入り・ホーチミン市の病院の外科医の指導、腎臓手術に関する論文がベトナムで最優秀受賞、フランス式からアメリカ式への医療制度変更時の10人の委員の一人に選ばれた人です。

○ ツーユー平和村職員グエン・ドク君の話

病気になる前の兄は優しくて、楽しい気分にさせてくれた。一緒に玩具で遊んだとか楽しい思い出が沢山ある。トイレの時は1人がしたいと思ったら2人で行った。それ以外では移動する時、互いに行く方向が違ってしまうことがよくあった。兄が(脳の)病気になったのは突然で、それ以後は不便になり、分離手術をして欲しかった。手術が成功して嬉しかった。学校へ行くようになり、友達が沢山出来た。スポーツが好きで、特にサッカーや水泳、バドミントンをよくやった。

ドク君はトゥインさんの家族思いのところ、トゥインさんはドク君が周りの人を楽しませる所が好きと言う。二人とも口を揃えて子どもは女の子を二人欲しいと言う。普通の家庭、普通に働け、穏やかで幸せな家庭を作りたいとの事。(「願う会」も支援して下さった)新居は気に入っている。時々トゥインさんの母親や二人の友達が遊びに来る。今年の5月から友人夫婦が経営していた会社/店にドク君夫婦も共同経営/お手伝いしている。ドク君夫婦の働く時間は自由との事。ドク君はこれまで通り平和村で働き、トゥインさんは今年初めから週3回日本語を勉強しています。日本の皆様には、これまで色々お世話になりありがとうございました。働き始めた会社の方はまだ苦しい状態ですが頑張ってやってゆきます。これからもよろしくお願い致します。

○ 小児第二病院ドン・ア前病院長の話(専門:小児科、1941年生まれ)

今年ベトナムの首相が訪日した時、日本の国会議長がベト・ドク分離手術は日越友好の象徴的出来事だったと述べた。’88年私はユン・カン・チュン主席から分離手術のチーフに指名された。私はヴァン・タン医師、チャン・タン・チャイ医師ら手術に必要なスタッフを推薦し、彼らがスタッフに認められた。’86年ベト・ドクが帰国した時、日赤の荒木医師が随行してきた。この時、ベトの体調から分離手術の話が出た。’88年3月私は計画書を荒木医師に伝えた。ベトは脳炎だった。当時世界の常識として、ベトが長時間の麻酔や手術に耐えるのは不可能だった。実際この時点でベトに麻酔を打つとケイレンが出た。当時、私はドク一人を生かす手術を考えていた。(一人分の臓器しかないものは全てドクに与えると云うことか)手術前の会議で手術方針について各自の信念を闘わせることをした。この中から”ドクを生かすことを最大の目標とする中で、ベトを生かすことに最大の努力をする。”と言う意見で一致した。この辺のことについて参加した日本人医師は手術前はあれだけ大声  で喧嘩していたのに、手術中は見事だったと言った。どの手術でも同じだが、この時もスタッフはベト・ドクを愛していた。人命を大切にしたいといつも考えていると思わぬことが出来てしまう。何度も我が家に集まって意見を出し合っていた。岡医師が分離手術のVTRを提供してくれた。これを見ながら解説したり、意見交換したり、ベト・ドクの場合どうするか意見交換した。ツーユー病院で二人の動きを観察した。一人の動きが他の一人にどう影響するのか、二人の内臓の動きとかを6ケ月間観察し、いろんなケースを想定しシュミレートした。そして手術の1週間前に手術時間は15時間と発表した。

手術は予定通り進んだ。予想していたことだが、手術中いろんな問題が起こった。簡単なことではなかったが、スタッフのレベルが高く、非常のことが起こっても短時間で理解し・素早く対応してくれた。一時、ベトの心拍数が180/分と非常に危険になり、ベトだけにしようと思ったこともあった。これは誰も知らない。二人の分離が終わった時、フォン医師が手術室外にいたスタッフや報道陣に手を上げて成功を知らせたが、私は知らなかった。分かれた二人をそれぞれのチームに渡し、手術を続けた。手術の成功をいつ確信したかとはよく質問されるが、直後は「二人が(今)生きている。」としか答えられなかった。1ケ月後二人が生きているのを見て、ドクは長生きすると思った。ベトが(手術後)19年も生き続けたのは奇跡だ。

医学での治療の成功とは病人を家族や社会に返し、仕事が出来るようにすることだと思う。ドク君は家庭を持ち、仕事もしています。世界でも珍しいことではないですか。ユン・カン・チュン元ホーチミン市衛生・保健局主席は、まだ若かった私をチーフに指名し、私が推薦したスタッフを承認してくれました。有能で責任感のある人に活躍の場を与える。人を良く見ているいいリーダーです。

若い医師へ贈る言葉として”運命に任せる生き方”、”目的のない人生”、”ルールを持たない人生”、”希望のない人生を送らない”これが出来れば理想的です。

Wark hard and do the best.

* 病院内のドン・ア前病院長の広い部屋の壁には20年前の手術の写真や新聞が貼られていた。毎日新聞や赤旗もあった。インタビュー前は病院長を紹介してくださった。まだ40代と思えた。

* 通訳のチャウさんは20年前の手術当日、TVで放映されているドン・ア医師の後姿の画面に釘づけになって見ていたという。

 

○ 頂いた赤十字新聞の記事(2008.5.1.)

結合双生児のベト君、ドク君が急性脳症のため危篤状態にあり現地では日赤の援助を求めている・・日赤にマスコミからの第一報がもたらされたのは1986年5月。日赤は人道的観点からこの問題を検討。医師3人と近衛社長(当時・外事部次長)は、二人が収容されているホーチミン市の病院に飛んだのです。医療班による8日間にわたるほぼ不眠不休の診療の結果、とりあえずの延命を行うことは出来ました。しかし、二人の病状と医療整備の現状を考慮すると診療上、これ以上の進展は望めないと言うのが医療班の判断でした。そこで、二人はJALの特別機で日赤医療センター(東京)へ運ばれました。危機を脱出することが出来たベト君、ドク君は4ケ月後、無事帰国しました。それから約2年後の”88年10月4日。ベトナムで医師ら70人のチームによる二人の分離手術が行われることになりました。日赤は必要な医薬品、医療機材を送るとともに日赤医療センターの麻酔科の荒木医師は2名の血液担当職員とこ近衛社長が現地医療チームのサポートをしたのです。近衛社長は喪服を持参したといいます。それほどむつかしい手術だったのです。麻酔開始から縫合まで述べ17時間にわたる手術は成功。二人は順調に回復に向かいました。

○ 近衛忠輝日赤社長からの手紙

当時、日本赤十字社にとっては、ベトナム赤十字社よりの前代未聞とも言える医療支援の要請を受けて戸惑いもありましたが、中曽根総理も非常に高い関心を示され、組織を挙げて取り組みました。先方が期待した分離手術こそ実現しませんでしたが、結果的に日赤が提供した二人に医療データ、人材、医療機材、医薬品を用いてベトナムにおいて手術が行われ、奇跡的な成功お収めたことがベトナムの医療関係者や広くベトナム国民に大いなる自信を抱かせるものになったことを大変嬉しく思っています。・・・  以上